人間環境大学

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【環境科学科コラム】更新しました。

「あんたは理屈ばかり言うねえ...」

大学時代に私が母とケンカした際に、母がよく口にした言葉です。入学前はこんなことは無かったのに...

私は大学で経済学を専攻しましたが、大学生活はとても充実したものでした。毎回わくわくしながら授業を受けていましたし、日に日に知識が増えていくことに無上の喜びを覚えていました。でも、学びを深めていくにつれて、こんなことを思うようになりました。「たくさんの知識を持ち、それを用いて世の中を良くしようと考えている人々がなぜ、こんなに争うのか」と。

研究者になって数年たった頃、この問いへの答えを、法事の際に家族で読むお経の中に見つけました。仏教の経典のうちの6分の1が、今で言う自然科学に関するもの、残りが心理学に関するものといわれています。だから仏教は、環境と心理についての教えであるといえます。最近では、ノーベル賞をとった著名な経済学者たちも「仏教経済学」に注目しています。

人が争うのは「無明」(むみょう)のせいであると仏教ではいいます。無明とは、例えば「誰もが他の生命や物質のおかげで存在しているのに、自分は他から独立して生きているのだと勘違いしている」ことです。無明は全ての生命がかかっている病気であって、知識をたくさん有した研究者であっても例外ではありません。

地球上のあらゆる物が活動できるのは、(多くの場合)宇宙から太陽光が入ってきてそれが様々なエネルギーに変換され、熱となって地球の外へ出て行くからです。生命はその流れの一部であり、呼吸したり食料を摂取したり排泄したりすることで存在することができます。人間の体は、物質的には一定期間たてば、まるごと入れ替わってしまいます。このように、生命が存在するとは「他の生命や物質の恩恵を受けながら、変化して流れていく」ということです。

だから、「他から影響を受けない永久不変の私」などあり得ないのだと仏教ではいいます。それはただの概念です。でも、生命の中でも特に人間は、「私」にこだわり、「私はいちばんえらい」などと思っています。そして、せっかく身につけた有用な知識も自分をえらく見せるために使ったりしますし、その知識が否定されると怒ったり落ち込んだりします。

無明を無くすためには、理屈を理解するだけではだめなようです。では、どうすれば無くすことができるでしょうか。わが家で法事の際に読むお経にはこう書いてあります。

「...無明の眠りを覚しつつ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に怠らず...」

(菩提和讃より)

歩いているときも(行)、立っているときも(住)、座っているときも(坐)、横になっているときも(臥)、妄想に囚われることなく、起こっていることをありのままに観察しなさい、全ての瞬間、その場所こそが現場です、という意味です。

人間は、概念というものを用いて過去や未来について語ったり、難しい学問を論じたりします。そのおかげで、物質的に豊かな生活を送ることもできるようになりました。それは否定できない事実です。でも他方で、人間は自分たちが作り出した概念(過去・未来・私・学問)の奴隷となって妄想を抱き、怒ったり悲しんだりすることもあります。そしてさらには、お世話になっている周りの人や自然環境にも大変な迷惑をかけてしまうこともあります。だから、知識を得るだけでなく、概念に囚われずにありのままに物事を見ることにもチャレンジしよう、というのです。

大学時代によくケンカした母とも、今では仲良くやっています。理屈ばかりでは平和は訪れないことを実感しています。みなさんの修める学問が、全ての生命の安らぎにつながることを願っています。

(環境科学科 山根)

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